昭和五十四年五月十九日 朝の御理解
御理解第四十七節 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れ にするからおかげにならぬ。」
これは神様を中心に申し上げた信心。私共人間を中心にした信心だ、と言う意味だと思うですね。神様中心の生き方、これならおかげも早いけれども、所謂、薬れ祈れとまず薬を先に。
言うならば、人間の願いと申しましょうか、を中心にした信心。 頼む事だけが信心の様に思うておる。神様から頼まれ様とはしない。言うならば御神意のまにまに、生きる生き方。
困った時だけ神様にお願いをすると言う様な信心じゃない。四十七節はそう言う意味で、ね、お徳を受けるための御教えだと、ね。『祈れ薬れにするからおかげにならぬ。』人間中心でおかげは頂いても、お徳は受けられない。人間が中心の信心。ね、言うならば神様本意で信心させてもらうね。そこからが神様が人間本意にもなってださる程しの、すさまじい働きがおこって来ると言う訳なんです。ね。そう言う意味だと思うのです。
先だってから、もう、ここの御建築、毎日、今何ち言うでしょうかね。あの地盤、昔で言うなら地形つきと言う所でしょう。すさまじい地響きで、村中に響き渡る振動がと言う位、今日で大体終わるそうです。
夕べ、お月次祭にここに出ろうとする前に秋永先生が「先生一っぺん位は、ありよる模様をご覧になって下さい。今日は若先生に言ってから見てもらいました。明日は、もう明日一日ですから、堂つきの模様を一っぺん、見て下さいと言う訳です。
これなんかがですね、神様を中心にした生き方から、ならばどげなふうにしよるじゃろうか、と言う様な事は全然ないですね。
人間が中心だとやはり、もう、ちょいちょい見にも行かんならん、と言った様な感じもしますけれどもね。神様がなされよると言う実感ですから、私共が、まあ、見物と言うだけなら、ともかくですけれどもそんな感じがします。とにかく神様を中心に申し上げる生き方、と言うのは本当に楽なものです。人間を中心にするといろんな人間心がいろいろに動きます。いろいろ出て参りますから、難しい、ね。
わたしは昨日、一昨日の研修の時です。末永先生から詳しく聞かせて頂いたんですけれども、今度の建築で沢山なお金を銀行から、お借りいたします。銀行の方でもどうぞ使うて下さい。もう、こちらで必要なだけは使うてください。と言うて本社の方からも言うてきて頂いとる位、だからもう、本当に有り難い。こちらのお金も一億何ぼ、やっぱ預金がありますから、それを先に使えば、一億の利子と言うたら大変な利ですからね。それを使うてしもうてから借りる様にしたが良いだろう、と私は思うておった。ところが銀行側の方の支店長さんが見えて「そげんしてもらわなければ貸さんと言う意味じゃないけれども、出来れば本社の手前も良いですから、お宅のお金は預金したままにしといて下さい。願い出来ればそして家の金を使うて下さい」と言う話が経理の久保山さんにあった。若先生と二人行って、二人にそう言う話があったんです。だから、そげな馬鹿なことがあるもんの、と言うて、ま、言うては来たけれども向こうからのそんな頼みであったから、こんな事でした。と私に久保山さんからお届けがありましたからね。「そりゃ、茂さん、こっちはそげん大きうはなかばってん、一つ大きなふりば、いっちよしてみろか」と私がそげな事、言うたら「先生、三百万違いますばい」ち、言うわけです、利がね。
自分の金は銀行にあるとだから、それを先に使うといて、とこう言う訳なんです。ね。そしたら、まあ、とにかく、それこそ、そんな、こちらが太っ腹でもないけれども、向こうがそう言うて強いて頼まれるならば、そうしましょうか、と言う訳でした。
そりゃ、もう、支店長がどげん喜ぶかわかりまっせん。これからの交渉も大変しよかろ。と言う様な事でしたが、それを私は詳しく知りませんでした。どういう事か、それを昨日、一昨日、末永先生が詳しく説明してくれた。
とても今度の事で大変名、合楽は得をする事になりますよ、と、言うのがどういう事になってるか、と言うとね、預金しておる利子を大変挙げて頂いたそうです。だから、これから、段々預金も増して行く事でしょうけれども、特別に合楽と住友銀行の本社との、特別の話合いが出来て、特別に利子を安くする。利子も大変。借りる利子も安くしてそして、お宅から預かっておるお金には他所以上の利子をつけると言う、約束が出来ておるそうです。ですから、これは一時の事じゃない。もうずうっとの事ですから、これは大変な、けれどもとても、どげん考えても、みすみす三百万も言うならば、損をするような事を、はい、と言うてとにかく、他所で出来る事ではありません。と言う話を昨日一昨日、聞かせて頂いて、はあ、そげなこつばいなあ、と、こう思うた。ね。
だから自分の、言うならば利益と言う事だけを中心に考えたら、そんな事は出来はしませんよね。そりゃ、経理を担当しとる久保山さん。もう、そげなこつが出来るもんの。自分の金があるとば銀行にほうくらかしといて、高い利子、借りるとは、高い利子ですから、ばってんそげな事は、いや、だからもう、そげんしてもらわなん貸さん、と言う意味じゃないですけれども、そうして貰うと大変自分が本社に対して、顔がたつから、と言う意味の事だったらしいです。それで、こちらはそれをまあ、向かおうとしてもとても受けるとは、思わなかったでしょぅけども、向こうの言うとうりに受けたわけね。所が金利を安くして今度はむこうに預けておる利を、高くして頂いた。だから、これが一年、二年の事ならば、ま、大した事はないばってん、これから合楽教会と住友銀行の特別の契約が出来て、合楽の場合はね、利子も借りてもらう時には安うします。預かったお金には高い利をつけますと、言う約束が出来たと言うんです、ね。
人間の考えを中心じゃなくて神様の願い、思いを中心に言うならば、銀行側の方を中心に考えてしたら、そういう結果になった、と言う話です、ね。
昨日、門司港、門司港教会の牟田と言う先生から、お礼のハガキが来てる。あちらで福岡のここに、印刷屋でここの御理解感話集を見られて、是非分けて頂きたいと言う願いがもう、何カ月か前にあっとりましたから、それを送って差し上げとりました。それから、こちらの、いろんな出版物があるなら是非送って下さい。と言うねんごろな、お願いの手紙が来とりましたから、毎月、おかげの泉やらを送りよります。その、お礼が来てるんです。それにはこう書いてある。まあ、肝心な所だけを読みましょう。
「金光大神様の御信心、親神様の恩徳を吹きつけて頂いておるような思いで、拝読させて頂いております。御礼申し、この上ともよろしくお願いいたします。追って、その節は、拙書 」この頃から表紙にマンガの親と子の金光教と言う御本を書いておられる先生です。それを送って頂いておりましたから、私が西岡先生に言うて「表紙の絵だけを見て助かりました。と書いといて下さい」と私が言うて手紙を 。
表紙にマンガに御神米を担うた犬が眠っておる、御神米を持たんで行きよるとには、犬がどんどんほえよる、と言うマンガが塗板に書いてましたよね、佐田先生が。そのお礼の手紙に私が、もう本当に有り難い御本を送って頂いて有り難いね。本当にあの表紙を見ただけで私は内容はも、パラパラとしか見ませんでした。けども本当に表紙見ただけでおかげ頂きますね。神様を頂いておるのと頂いておらんと言うのは、こんなにも違うのですよ。と言うマンガですよね。何も説明してないけども絵を見ただけで、それが感じられるような絵だったですから、表紙の絵を見ただけで助かりました。と
私がその言葉をそのまま、先生に言うてやっとった。そしたら、その事をです、今度の金光 何とか画報と言う大きな御本が出よりますもんね。それに、その事を書かせて頂きました。と言うて来てるです。その最後の所にそれが書いてございます。
「親子の金光教について、有り難いお言葉、表紙を見て助か りました。とのお便り有り難く噛み締めております。金光 画報の七月十三日の表紙の事を書きました。」
と言うような、はっきり分かるそういう事が書いてある。
神様を中心にいつも思い、それが神様を中心に表現する、と言う事がね、おかげになると言う事がわかります、ね。
私は今日、薬れ祈れと言う事、これはね、神様を中心にした生き方だと思います。ね。薬れ祈れと言う事は、人間を中心にした考えだと思います。それではおかげにならぬ。どこまでも神様中心、神様を本意での生き方、ね。そこから言うならば神様が私本意になって下さる。こっちは願いもせん。思いもかけない働きがそこからおこって来るのです、ね。今の、この牟田満正先生なんかもです、とても合楽の先生がこう言った、と言うような事が何々画報に書いてくれ、なんて言うような事やらは夢にも思わなかった事でしょう。ね。そりゃ、ま、こっちはそんなに大きな腹ではないけれども、やはり銀行の言い分も聞かなきゃ、ま、一応ね、差が、金が三百万も違うなら、そうした方が便利がよいごたるけども、そう、そりゃ、そげなこつが出来るもんの、ち、言うても良かったのですけれどもこちらは銀行中心に考えさせて頂いた。その後に言うならば、大変、ま、言うならばその事が支店長も喜ぶ、本店の方でもその事が受けが良かったのでしょう。今後合楽には利子はこんなに安くする。または預かつたお金は、これだけ他所よりも高く、お預かりする。と言うような事になってきた。だから、只、差し引き計算の、その場だけでは大した事はないようだけども、それがいついつまでも、と言うような事になって来る時に、やっぱりね神様の確かに働きと言うか、神様を本意にした生き方はそういう、すさまじい働きが一事が万事におきてくるおかげになると言う事です、ね。思いもかけない有り難い事へ展開する、と言う事なんです。
今日は薬とか飲むとか、お願いするとか、しないとか言う事でなくて、この四十七節の、言うならば四十七節の心と言うのは、そういう意味の事がここでは説いてあると言うふうに思うのですね。
昨日、研修の時にこう言う話が出ました。と言う西岡先生が『温故知新』ですかね。これは温かい故、知る新しい、と書いてある。こう言う言葉がありますよね。言うならば、古きを訪ねて新しい事を知る。と言うような意味らしいです。ね。
金光教が新しうならなればいけない。只、新しい事だけを言うておってはいけない。やはり教祖の神様が教えられた、教えをもとにしたものでなからなければいけない。しかもその、ま言うならば古くさい言葉で教えておられるけれども、その内容にはもう実に斬新なね、教えがひそまれておる。と言う事。それを合楽ではね、掘り起こしておるようなな感じがするね。
例えば今日の御理解聞いても頂いても、これはどうかある時に、薬を飲む時だけの教えにせずにですね、これをお徳を受ける、受け方、頂き方、一事が万事に薬れ祈れといったような自分と言うものを、薬を、中心に先にする。人間の考えを先にするような、生き方をしてはおらんだろうか。それなら、おかげ御利益は頂いても、お徳は受けられない。けれども神様を中心に申し上げた生き方から、するとね、神様が氏子中心の働きを起こして下さる。そういう今日は例を聞いて頂きました。 「どうぞ。」